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セナの思い出 後編 [日々の徒然]

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1987年の鈴鹿でのF1初開催の時は、日本国内でも大きな話題に上ったこともあって、当時私が勤めていたホテルにも、誰か有名人が宿泊しているのではないか、とか、料金はいくらでも出すから部屋を何とかしろ、とか、そんな問い合わせやら申し出が、ひっきりなしにやってきた記憶が残っています。F1チームからも、このホテルを気に入ったので、ぜひともウチのチームと来年の契約を、との申し出が有ったのですが(マクラーレンとフェラーリ)、こんな地方の小ホテルで、海外のチームと直接やり取りする余裕も余力もなく、そんなお話は全てお断りしていました。
もらい物もいろいろありましたよ。この記事を書くのに家の中を探してみたら、1992年の世界耐久の時のTシャツと、マクラーレンチームのマネージャーにもらった日傘が出てきました。あと、バックやキーホルダーなんかも、いただいたことがありますが、一番はチケット(グランドスタンドの指定席)かなあ。
さて、レース決勝当日も、翌日のチャックアウト作業の準備に没頭していた私は、レース結果など知る由もなかったのですが(後でロータスのセナは2位だったことを知りました)、レース終了後間もなく、急いでホテルに戻ってきたセナは、「すぐにチェックアウトするので用意してくれ。それと、今からシャワーを浴びるから、サンドイッチのルームサービスを頼む」と言って、急いで自分の部屋に行ってしまいました。ルームサービスの時間でもなかったのですが、まあ最後だからいいか、と融通を利かせた私は、暇そうにしているコックさんを捉まえて作ってもらい、ちょうどアイドルタイムでウェイトレスも居ないので仕方なく、自分でセナの部屋までもっていきました。ノックをして、返事があったので部屋に入り、ふと見ると、ギョッ!全裸(後姿しか見てませんよ、念のため)。日本でも、セナの全裸を見たのは、ひょっとすると私くらいかもしれません(笑)。
宿泊していたチーム関係者はほとんどが、チームの一括支払だったのに、ドライバーだけはなぜか個人払いだったのを覚えています。間もなくフロントにやってきたセナは、クレジットカード(その時はアメリカンエクスプレス、お金持ちの著名人なのに、ゴールドカードではないのか、と思ったので憶えています)で支払うと、迎えの車で急いで出て行きました。チェックインの時のゴタゴタを考えると、チェックアウトの時も仔細に明細を確かめるのかな、と心配していたのですが、そんなことは全くなかったですね。
翌年からはセキュリティの関係からか、要望があったからか、ドライバーと主要関係者は全員は、ようやく設備が整ったサーキットホテルになりました。なので、私がアイルトン・セナと直接会ったのは、その時だけでした。世界中で天才ドライバーと呼ばれている人を間近で応対できた印象は、こうして22年経った今でも覚えているほどですから、やっぱり強烈だったんでしょうね。そしてその翌年の1988年、ホンダエンジンと共にマクラーレンに移籍したセナは、鈴鹿GPで劇的な逆転勝利を得て世界チャンピオンになったことは、皆さんもご存じのとおり。あの時私が持っていったサンドイッチのおかげかな~(笑)。
そんな彼も、もうこの世にいません。鈴鹿市役所のロビーの一角でたたずみ、アイルトン・セナの写真を見ながら、こんな当時の出来事を、ふと思い出してしまいました。
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セナの思い出 中編 [日々の徒然]

鈴鹿市は工業立地に恵まれていることもあって、以前からその誘致には熱心で、その代表例がホンダですね(今ではシャープや東芝の工場も周辺にありますが)。鈴鹿のホテルといっても大規模なものは無く、通常はそんな企業群にやってくる出張客相手のホテルばかりです。しかしサーキットでレース開催日となると、ドッと観戦客がやってくるので、(今ではホテル数も増えましたが)当時はまだまだ部屋数が足りず、厳しい争奪戦がありました。8耐は言うに及ばず、2輪のWGPや世界耐久選手権、モトクロス世界選手権などの世界戦の場合は特に。はっきり言って、完全な売り手市場でしたから、部屋代を2倍(100%UP)にしても十分売れましたし、F1の時などは3倍以上にするホテルもありました。ただ当時担当だった私は、それはやりすぎだろう、という感覚があって、通常時の一割増(10%UP)という、かなり良心的価格設定だったですね(商売下手でした)。
ただ、サーキットホテルを除く周辺ホテルのなかでは中心的存在だったせいもあって、こうしたビックレースの際には、鈴鹿サーキットから部屋を押さえられることが多かったです。鈴鹿市の企業として、こうしたレース開催・成功に協力するという意味でそうしていたのですが、反面、一般出張客や長期滞在客、馴染みのレース観戦客などの要望に応えられないことを意味し、社内でもいろいろ議論があったことを思い出します。F1開催初年は、8割くらいの部屋をサーキットに差し出しましたが、次年から徐々に減らしていき(サーキットホテルな拡張もあって)、数年後には半分くらいになったように憶えています。
さて話は戻って、そのアイルトン・セナ氏がホテルにやって来たのは、東京での様々なイベントや仕事を終えてからでしたから、チーム関係者の到着から2日後の深夜でした。フロントに着くなり、いきなり文句を言いだします。「サーキットホテルではなく、なぜこのホテルなのか?」と。宿泊先を振り分けたのは私たちではなく、我々はサーキットから送られてきた名簿の方々に部屋を提供しているのだ、と何度も説明したのですが、まったく納得してもらえず、「サーキットホテルに替えろ」の一点張り。これには困りました。それはサーキットの担当者に言ってもらわないと我々ではできないし、もう深夜なので、とりあえず今夜はここで宿泊し、明日にでも交渉してみてはどうか、と言ったのですが、フロント前の椅子に座り込んだまま動く様子は無し。
困り果てた私は、手当たり次第に電話を掛けまくって、何とか関係者を探し出し、説明と説得のために来てもらいました。それでも小一時間ほど駄々をこねていたセナ氏は、しぶしぶ納得して、まあ何とかその日は部屋に入りました。結局、サーキットホテルにも余裕がまったく無くて、開催期間中はずっと当ホテルの宿泊者でいましたが、あまり笑顔を見せない、いつも何か考え込んでいるような表情の青年(当時の私とあまり年が変わらない)でした。
(つづく)
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セナの思い出 前編 [日々の徒然]

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先日所用で、鈴鹿市役所に行ってきました。鈴鹿市役所は3年ほど前に建物が建て替えられて、広くて綺麗な、15階建てのモダンなビルになってました。以前の古くて、暗くて、建て増しを繰り返したために分かりにくかった構造とは180度変わり、開放感溢れる実にフレンドリーな雰囲気です。
広いロビーの一角に「モータースポーツ振興コーナー」というのがあって、その時々にいろんな展示があるのですが、私が訪れた時はちょうど、アイルトン・セナの写真展が行われていました。そういえば彼がこの世を去って、もう15年になります。
30代以上の方には記憶があることだと思いますが、アイルトン・セナといえば、当時「音速の貴公子」という通称で呼ばれたF1ドライバー。そのずば抜けた成績もさることながら、甘い風貌と天才を難じさせるストイックな言動、そして日本のHONDAとも縁が深かったために、日本でのF1人気の盛り上がりと共に、モータースポーツとは縁の無い人にも知れ渡っていた、代表的なF1ドライバーですね。
私が彼と初めて直接会ったのは、1987年。鈴鹿サーキットで初めてF1が開催された時です。あの時は、F1の開催・運営に関して、皆が知識も経験も不足で、サーキットも鈴鹿市も周辺市民も、まあドタバタで、どうなることか誰も分からない状態でした。当時、鈴鹿サーキット近くの某ホテルに勤務していた私は、何カ月も前からサーキットと打ち合わせを繰り返していたにも関わらず、想定外の出来事の連続で、ほとんど家に帰れなかったことを思い出します。
当時のサーキットホテルは今のような規模ではなく、外国からの著名人や関係者全員を収容できるキャパシティも付帯設備も足らなかったので、とにかく周辺ホテルの部屋を抑えて、大挙押し寄せる人と様々な要望に対処しようとしていました。鈴鹿市の行政を含めて協力体制を作ったのですが、開催日が近づくにつれ、2輪のWGPや8耐とは桁違いな規模であることが分かってきて、不安でしたね。何といっても初開催ですから、何が起こるか分からない状態でした。
もちろん私が勤めていたホテルも、サーキット名義で多くの部屋を押さえられていましたが、誰がどのように使うのかは、間近にならないと分かりませんでした。開催一週間ほど前になって、宿泊者名簿がやっと送られてきたのですが、何とその中にアイルトン・セナの名前が。当時所属していたロータスチームのほとんどが、私の勤めていたホテルに宿泊するようで、当時のセナのチームメイトだった、中嶋悟氏の名前もありました。以前からF1には興味があった私は、ちょっとウキウキしながらその日を待っていたことを、今も覚えています。

(つづく)

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すそ野にて 1 [巷の雑感]

小学生のサッカー少年をお持ちの方はご存じのことと思います。また、中学生以上のサッカー少年たちには、たくさんの思い出と想いのこもった大会なのではないでしょうか。いよいよ今年も、各都道府県で「全日本少年サッカー大会」の予選が始まりました。
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33回目を迎えるこのサッカー大会は、12歳以下の小学生が対象となる全国大会。夏の本大会出場を目指して、各都道府県では予選が始まりつつある。高校球児にとっての甲子園と同様、ジュニア年代(小学生)としては最も大きな大会で、最終学年となったサッカー小僧たちが夢見るのが、全国大会出場。そしてそれをサポートする保護者にとっても、その予選は力の入る試合が続くことになる。頂点を目指して、まずはその裾野からスタートする。我が県でも今月から各地区の予選が始まり、来月の県大会出場チームを選ぶ試合と悲喜が続いている。
その日もいつものように、カメラを担いでサッカー少年たちの真摯な表情を撮っていた。私は定点撮影ではなく、試合状況に応じて移動することがほとんどなのだが、やはりこの大会の予選ともなると、応援する保護者の数もかなり多い。試合開始前にはグランドをぐるりと保護者の壁ができたりするのだが、そんな方々の観戦に邪魔にならないように配慮しながら撮っていた。試合は序盤から一進一退の攻防。応援する方にも力が入るのは分かるのだが、私の背後から突然のブーイング。自チーム選手がボールを競り合って倒されたからだ。ふと左右を見ると、どうも私はそのチームの保護者の一団の中にいるようだ。
サッカーの試合中に選手が転ぶのは普通にあること。しかし応援する一団は、ファールを取らなかった審判に不満の表情がありあり。するとまた同じようなシーンが。今度は主審がファールを取ったが、その選手に対する更に大きなブーイングと、「何でイエローカードを出さないんだ」という声が飛んできた。私のすぐ目の前には線審がいたのだが、彼に聞こえるように。スタジアムの観客席からなら、選手や審判との距離があるので、そんな声も届かないかもしれないのだが、ここは小学校のグランドだ。保護者の一団と線審とは数メートル。
その後も自チームの選手が地面に膝を着く度に、「エーッ!」「オイ!」とかの非難を込めた叫びが飛び、イエロカードを要求する声が出る。すぐ傍の線審は、そんな声を制するように手で合図をするのだが、そんなことはお構い無し。逆に近くにいるだけに、保護者のアピールの標的にされているようで、ちょっとかわいそう。選手も一生懸命なら保護者も必死なのだろうが、さすがに私もその光景には不快感を感じた。これは声援ではない。結局そんな非難の声を収めたのは、先取点をそのチーム取ったこと。イエローカードこそ出なかったが、そのチームがPKを獲得して先取点を取ると、その保護者の一団も少しは納得したのか、まあ何とか前半が終了した。
さて私は、ハーフタイムになったことだし撮影場所を移動しようか、と思っていたところ、主審と線審の3人がその保護者の集団に走り寄ってきた。そして、「子供達も一生懸命にプレーしています。そしてそれに応えるように、我々も一生懸命にやっています。今後これ以上、応援以外の声を出すようであれば、この試合を没収試合にしますから!」と言い切った。その言葉に、さすがの熱の入った保護者集団も冷静さを取り戻したのか、以後は「がんばれ」しか言わなくなった。
永年サッカー少年を撮り続けている私の眼には、先のPKを獲得したシーンも、実は微妙な判定で、どちらのチームの選手が悪かったのかは判断の難しいところ。外野の声に押されたという印象は、はっきり言って有る。そんな外野からのアピールが、子供たちの内なるヤル気につながればよいのだが、試合全体の雰囲気を壊すのはどうかと思う。ましてや、小学生の大会だ。経験も分別のある大人の試合を遠くから眺めているのとは違う。
それに加えて、ホイッスルを吹いた後、その主審は、「故意じゃないないのは、分かるんだけどなあ~」と言い訳みたいなことを言って(その声もしっかり保護者に聞こえていた)、PKを指示するのは、当事者の選手に不満が残るだろうし、対戦相手の保護者にはもっと釈然としない気持ちが残っただろうと想像できる。
もちろん、このような大きな大会の審判をやる以上、それに応じたライセンスを持った方なのだろうが、地方の県で、それも県大会ではなく地区予選というと、対戦チーム以外の監督やコーチがボランティアでやっていることがほとんど。この大会にかける子供たちの願いや保護者の熱意の対象になってしまうのは、ちょっとかわいそうな気もしないではないが、その日の最終試合の審判に割り当てられていた人が、自チームと一緒に帰ってしまった、などという不手際を目の当たりにすると、審判に対するモチベーションをちょっと疑ってしまった。
サッカー少年たちのこの大会にかける熱い想いは、日本全国どんな県でも市でも町でも、同じはず。そしてそれをコーディネイトする審判や大会関係者も、日本全国、都会であろうが地方であろうが、本大会であろうが地区予選であろうが、同じであって欲しい。どんな大きな大会、立派な大会でも、強豪チームであろうと無名チームであっても、こんな地方の裾野の予選から勝ち上がっていかなければならないのだから。もっとも、大人である我々がまず、子供たちの前で毅然とした言動をすることが、まずは必須だとは思うが。


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少年サッカーの撮影 その65 [少年サッカーの撮影]

我が子、我が子の所属チームを撮っている方も多いと思いますが、何も我が子だけを撮っているわけではないと思います。そんな方々に、今回は撮った後の写真をどうするかについて書いてみたいと思います。もちろん、自分で撮った写真をどうしようとも、自由なのですが、ちょっと私の体験談を書かせていただきます。

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息子の技術向上と親子での反省会のためにビデオ撮影を始めた私は、その真摯にボールに対する選手の表情に魅かれ、コレを形にして残したい、との想いが強くなり、写真撮影へとのめり込んでいった。銀塩からデジタルへと機材は変わっていったが、我が子だけでなくチームの選手たちを分け隔てなく撮っていた。その中でも自分が納得できる画に関しては、プリントしてその子に渡してあげたりもした。その子もその父兄も大変喜んでいただけたし、別に感謝してもらうために撮っているわけではないのだが、それでも写真を撮る励みにはなっていた。
また、撮っている写真は撮影者本人にしかなかなか分からないこと。試合中に他の父兄に混じって、目立つ望遠レンズを振り回していると、どんな写真を撮っているのか、という興味の目を向けられることも少なくない。プリントして渡してあげるということは、私はこんな写真を撮っています、という表示にもなり、昨今問題となっている盗撮まがいのものや、いかがわしい写真ではないということを、他の保護者やチーム関係者に対してアピールすることにもつながる。私はそういった両方向での目的で、撮った写真の一部ではあるが、プリントして配っていた。
しかしそれを続けていると、チームメイトの保護者から、お中元やお歳暮が届くようになった。いつもウチの子の写真を撮っていただいているから、という理由で。もちろん断ったのだが、聞いてみるとそんな写真のお礼の話がチーム内に広まっているという。アノ子がコレくらいのものを送ったのなら、ウチの子はもっと撮ってもらっているから、もう少し出さないと、とか。これはマズイことになったと思った。一つのチームで選手は平等。そしてそれをサポートする保護者も、皆平等にならなければおかしなことになる。私は別に、悪いことをしているという意識はなかったのだが、そうであっても相手に負担を覚えさせるようなことは、大人がすべきことではない、と判断した。

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考えた末に私が出した結論は、実費だけ負担してください、というもの。チームの選手を平等に撮るといっても、試合出場の機会が平等ではない以上、撮影枚数の差は出る。また保護者によっては、我が子の写真をたくさん欲しい人も、そうでない場合もある。それで、半年間なり一年間なりのスパンで、撮った写真を一覧表示したファイルを作って見てもらい、欲しい写真があれば実費負担でお渡しします、というやり方に変えた。これならば、たくさん写っている子、たくさん写真が欲しい人はそれなりの、そうでない人は少ない負担で済む。自分のプリンターで印刷するとコストが分かりにくいので、カメラ店のデジカメプリントを使用し、印刷にかかるコストを明確にする。写真販売となると商売になってしまうが、儲けは一切取っていません、ということを明確にすることを心掛けた。そしてチーム全員にしっかりこの方法を説明した上で実施すると、写真を撮る方も撮られる側も、変な配慮無くできるようになり、今も続けている。
ただこの方法、やるとなるとなかなか大変な作業で、自分で撮って気ままにプリントするのとはちょっと違う。一年間で一万枚以上の写真の中から、その子が欲しがる写真、カッコよく写っている写真、記念となるような写真を抽出する作業がまず大変。選び出した写真を、レタッチしたりトリミングしたりして、プリントした際に見栄え良くする作業も結構面倒。そうした数百枚の写真の一覧ファイルを作るのも、意外とコストが掛かったりする。そしてそれを毎年続けるとなると、よく撮れた時だけ渡すのとは違い、成果を期待されたり、失敗できないプレッシャーを感じたり、気ままな撮影とはいかなくなることもある。
○×さんがウチの子と同じチームだったから、こんなにもたくさんの成長の証となる写真得られた、などとお世辞混じりの言葉をかけていただければ、私としては充分冥利に尽きる。利害関係の無い子供たちの世界だから、アマチュアで趣味だから、撮る方も後ろめたくなく、撮られる方も気兼ねなく、が良いと思う。

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2枚目
CANON 1D MarkⅢ+EF300mm F2.8 L IS+EF1.4xEXTENDERⅡ
焦点距離 420mm シャッター速度優先AE シャッター速度 1/800 絞り F5.6 評価測光
露出補正 +2/3  ISO 160  AI SERVO AF  RAW
3枚目
CANON 1D MarkⅢ+EF400mm F5.6 L
焦点距離 400mm シャッター速度優先AE シャッター速度 1/800 絞り F6.3 評価測光
露出補正 +1/3  ISO 500  AI SERVO AF  RAW
4枚目
CANON 1D MarkⅢ+EF300mm F2.8 L IS+EF1.4xEXTENDERⅡ
焦点距離 420mm 絞り優先AE シャッター速度 1/640 絞り F4.5 評価測光
露出補正 +2/3  ISO 100  AI SERVO AF  RAW
5枚目
CANON 1D MarkⅢ+EF400mm F2.8 L IS
焦点距離 400mm シャッター速度優先AE シャッター速度 1/1000 絞り F2.8 評価測光
露出補正 +1/3  ISO 160  AI SERVO AF  RAW
6枚目
CANON 1D MarkⅢ+EF100-400mm F4.5-5.6 L IS
焦点距離 400mm 絞り優先AE シャッター速度 1/1600 絞り F5.6 評価測光
露出補正 +2/3  ISO 500  AI SERVO AF  RAW
7枚目
CANON 1D MarkⅢ+EF300mm F2.8 L IS+EF1.4xEXTENDERⅡ
焦点距離 420mm シャッター速度優先AE シャッター速度 1/640 絞り F4.5 評価測光
露出補正 +2/3  ISO 250  AI SERVO AF  RAW

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桜だけじゃないよ [日々の徒然]

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桜の見頃はもう過ぎてしまったこの地方でも、実は今が盛りと花を咲かせている草花をよく見かけます。
春の訪れを告げる代表的な花が桜だろうし、昔から多くの日本人に親しまれ愛でられてきた花であることは間違いないだろうし、実に美しいことは言うまでもないでしょう。しかし、何も春を謳歌するのは桜ばかりではありません。
最近ちょっと塞ぎ込むことが多くて、そんな時に気分転換に外へ出て、ちょっと近所を歩いてみると、そんな花たちを見かけます。昨今のガーデニングブームの影響からか、庭先や玄関先に花々を植えている家庭も多く、プランターや花壇の中で鮮やかな花を見つけることができます。またそうでなくても、道端のアスファルトのちょっとした隙間や堤防沿いの斜面、街路樹の根元などにも、ひっそりと春らしい色が見られます。私はこうした植物にはまったく無教養で、花の名前も分らないのですが、桜の木のように、多くの人の感嘆を集めなくても、しっかり春を主張している、小さな主役たちを、近所を歩きながら撮ってみました。お目汚しかもしれませんが、彼らの健気な主張と春の色を感じていただければ幸いです。
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春の花5.JPG
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上記すべて、Kiss DX+SIGMA 18-50mm F2.8 EX DC Macro
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