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正月らしさ [巷の雑感]

もう正月気分もすっかり抜けたというのに申し訳ないのだが、最後に一話題だけ。
 
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昨年はデフレに苦しんだ一年だったという。モノの値段がドンドン安くなり、それでも売れない。失業率が上がり、一昨年末に話題になった非正規雇用者だけでなく、正規雇用者の従業環境も厳しくなった年だった。そんな暗さのせいだろうか、年末のクリスマス商戦や年始の初売り商戦が、いつもより華やいで見えた印象がある。それでも結果は、あまり芳しくないようだが。
年末年始のこうしたイベントでは、どうしても出費が多くなる。国民皆中流意識の日本では、所得が減ったからクリスマスプレゼントは無しにする、とか、生活が苦しくなったからお年玉は無しにする、といった話はあまり聞かない。初詣の賽銭が少なくなったというから、節約はするのだろうが、一年を締めくくり、新年に夢を馳せるために、固くなった財布の紐をこの時期は少し開ける。そしてそれを期待して、多くの店や会社が広告を捲き、集客を狙う。
先日、同年代の方と話していると、何気に正月の話題になった。そして我々の口から出たのは、「最近は正月らしさが無くなった」という言葉であった。私が子供の頃(ということは、随分前の話だが)、正月は付近のお店などは皆休みで、初詣で賑わう神社周辺を除けば、道路も閑散としていて、澄んだ冷たい空気のせいか、どこか凛とした雰囲気が流れていたように記憶している。年末は、あんなに賑わっていた商店街やデパート・スーパーなどは、皆シャッターを下ろして静寂の一因になっていたりする。そんな中で子供の私は、どうしても家の中にいる時間が長く、それは家族と過ごす時間が長くなることを意味し、時に初詣に出かけたり、親戚の家に行ったりはしても、基本的には、おせち料理を食べながら年賀状を見たり書いたり、もらったお年玉の使い道を考えたり(店が開いていないので、直ぐには使えなかった)、コタツを囲んで家族でテレビを見て過ごす、というのが正月だと思っていた。
それから随分時を経て、今では元旦から営業している店は珍しくなくなった。おせち料理は、保存のきく造り置きの料理で、正月には生鮮食料品がなかなか手に入りにくかったことも普及要因の一つだと思うのだが、今では元旦から普段通りの食材が苦も無く買える。1月4日とか5日に行われる初売りを目指して、いろいろ策を練ったこともあったが、元旦の朝から福袋を求めて店の前に並ぶのが、現在である。
元旦の朝に配られる新聞には、多くの広告チラシが入っている。それは例年のことなのだが、それらを眺めていると、元旦から営業の店は半分ぐらいだろうか。2日から営業となると、もうほとんどの店がそうである。デフレの今、財布の紐が少しでも緩みそうなら、休んでなどいられない、ということだろう。しかし、そうして賑わう正月の街には、買い物客だけではない。そこで働く人たちが必ずいる。
以前、業界最大手のヤマダデンキが、元旦営業をやめたことを、このブログで書いたことがある(2008年4月19日)。その後、デフレと不況が進行した日本では、その目的や志に業界は追従せず、元旦でさえ一大商戦の場だ。雇用環境が悪化した今年、それに異を唱える従業員の声は、随分と聞こえなくなった。職があるだけマシ、という状況では、自らの職を確保するために、勤める会社や店の存続のために、元旦から出社する人は何も言えない。
しかし考えてみると、元旦というのは、世界規模で祝日という貴重な日なのだ。日本には祝日もお盆休みもあるが、それはほとんどが日本固有のものだ。外国にも祝日やホリデーはあるが同様。でも、旧暦を使っている一部の国を除いては、多くの国で元旦は祝日で休み。全世界的に見て、最も人が働かない休日が、この元旦だと言えるのではないだろうか。もし世界共通の祝日を造るとすれば、真っ先に候補に挙がるのが、この元旦であろう。
いっそのこと、元旦は世界規模で「働かない日」にしてしまったらどうだろう。そうなると、交通や経済の面で不便のしわ寄せが来るかもしれない。でも一年に一日くらいは、そういった日もあっても良いのでは、と私などは思ってしまう。民主主義の多数決の原理なら、可決しそうだが、資本経済の原則からは、有り得ないことだろうか。ただ私は、そうでもしないと、昔私が抱いていた「正月らしさ」は戻ってこないような気がする。

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