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ブログ [巷の雑感]

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暫しの充電期間を設けさせていただいた私。さて、まず何をやったかというと、3年以上にわたって書き続けてきたこのブログ「マイ趣味ライフ」のバックアップをとること。これまでその都度しっかり取っておかなかったことは私の怠慢なのだが、せっかく皆さんに育ててもらったブログ、不慮の事故で全てを失ってしまうのは忍びない。そうした不測の事態に備えて、万一の場合でも復旧できるように、540の記事と写真を時系列ごとに保存することが、まず最初にしたことだった。
しかし、そうして過去に書き綴った記事を読み直したりしてみると、いくつか気付いた点がある。まず一つ目は、何とも未熟な文章だったなあ、ということ。あの時はこんなことを考えていたんだ、とか、こんなこともあったなあ、なんて感慨にも浸ってしまい、書いた本人には暫しその時の感情や想いが甦ってもくるのだが、さて私がこうして感じたり考えたりしたことが、そのまま素直に、正確に伝えられたのかといえば、ちょっと疑問。比較的時間をかけて書いた最近の記事はまだしも、最初の頃の記事は、ちょっと恥ずかしい。こんな書き方では、とか、もう一文加えた方が、などという反省が頭をよぎったりする。
別に誰にも見てもらわなくてもいい、自分の日々の記録として、日記のように書き続けていればいい、と始めたブログ。自分だけしか読者がいなければ、未熟な文章でも、読めばあの頃の記憶や想いが甦れば、大いに意義のある文章だとも言える。ただ、引出しにしまった日記に書くのとは違い、不特定多数の出入りするネット上に掲げるブログならば、他の人に読んでもらうために書く、という側面は有る。「うれしかった」とさえ書けば、読み手に歓喜の感情を伝えられるか、といえばそうではあるまい。活字を通して自らの考えや想いを伝える技量は、やっぱり必要だなあ、と思ってしまった。
気付いた点の二つ目は、先にも書いたような日記的側面。日々の生活は、取り立てて重大なことが起こらない限り、何事も無く流れていくものだが、それでも細かな断片を「読める」という形にしておくことが、振り返った時に大きな価値を持つことに気付いた。これは書き手に対してであって、読み手にはそれほど意味は無いのだろうが、これを書くのに何時間もかかって苦労したなあ、とか、泣きながら書いたっけ、などという記憶が呼び起されるのをみると、ブログとして残してあって良かった、という価値を見出してしまった。だいたい人間は、感動したり怒ったり、涙を流して悲しんだり、悩みにもがいてばかりを毎日繰り返しているわけではない。実は何事も無く過ぎていく日々、取り立てて変わったことのない時間の方が圧倒的に多い。そんな他人から見れば無視するような、本人にとってもチッポケに思える一片でも、こうして形にしておくことの意義。ブログを始める前を振り返って、そんな小さな出来事や感情が、自分の中で既に埋もれて見つからなくなってしまったことを考えると、その意義を感じてしまった。

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そして三つ目は、写真を添付してビジュアルに見せることが、書き手にも読み手にも、その時にも後で読み返すにも、やっぱり効果的だなあ、と思ったこと。行間を読ませるような卓越した文章力の無い私にとって、この写真というのは大いに補完する力になっていてくれる。写真を趣味の一つとしてる私には、撮影すること自体には苦を感じはしないが、それでも何気ない一枚を得るのに結構苦心した記憶はある。文章自体はとっくに書きあがっているのに、それに添付する写真が撮れないために、なかなか掲載できなかったこともあった。逆に、写真のみで想いを伝えられる程の力量も持ち合わせてはいないのだが、今回振り返ってみて、文と画の相乗効果はしっかり感じてしまった。
最後に四つ目として、コメントを頂ける嬉しさも挙げておきたい。他の方はどうか分からないが、サラサラ書いているようで、実は私、一つの記事を書くのに半日ほどの時間を費やすことはザラにある。そうして書いた記事にコメントを頂けるとなると、やっぱり嬉しい。ブログを通じて、何らかの自分の考えや想い、情報などを発信し、それに対して、コメントという自発的な反応を頂けるのは、共感できる嬉しさでもあるし、僅かばかりでも誰かの役になった嬉しさでもある。そして、自己満足的な一方向の発信ではなく、双方向の交流になった嬉しさも、書いた甲斐、という形で書き手に残ると思う。もちろんこのブログも、最初から沢山のコメントを頂けたわけではないし、コメントを頂くことを第一の目的とした訳ではないのだが、ここに至ってこうして得た「輪」は、実は大切なものだと、今になって痛感したりしている。(ちなみに、最もコメントが多かったのはやっぱり、2009.10.30のアレでした)

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バックアップを取りながら感じたことはそんな事なのだが、振り返ってばかりもいられない。さて、これからどうしよう。
アクセスカウンターの数字が上がっていくに従い、そして頂くコメントが増えるに従い、もっと理路整然とした文章を、もっと有益なテーマの提示を、などという識者や論者のような感覚が、自らの足に不釣り合いな重しを付け、それが何か、行き詰まり感を生んでしまったような事を考えると、自らの力量を考え、ここでブログを辞めてしまうという選択肢も確かにある。しかし、先にも書いたように、ブログを続けることのメリットも、今回しっかり感じてしまったのも事実。ならば、もう少し肩の力を抜いて続けられるブログにしてみてはどうか、という結論に自然と達する。しかし、書き手が同じである以上、書く文章や志向がそれほど変わるとも思えない。これまで同様、多くの時間を割いて書く記事は無くならないだろうから、サラッと書く記事の比率を多くする、ということにかもしれない。ひょっとするとそれは、趣味の事だけを書くつもりで始めたこのブログが、少しその趣向が変わってしまうことを意味するのかもしれない。



そんな訳で、私の達した結論は・・・


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フードコートにて [巷の雑感]

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地方では大型のショッピングセンターは珍しくないが、そういった所にはたいていフードコートがある。フードコートとは、100席規模の共有の座席スペースの周りに、主にセルフサービス形式の小さな店舗が軒を連ねる、飲食店広場のこと。じっくり食べる夕食とは違い、買い物がてらにちょっと食べる昼食には適していて、我が家もいつもお世話になっている。家族で行っても、各自が好きな店で好きなものを注文して、一緒のテーブルで食べられる点が飽きられず、リーズナブルな価格と共に家族連れに好まれるところだろうか。
先週日曜日も、家族と一緒にこのフードコートのお世話になった。ちょうどお昼時ということで混み合っていたが、何とか席を確保して、「チャーハン・ラーメンセット特価」と大きく書かれた店に並んだ。するといきなりテーブルを叩く音が響き、怒声が飛んできた。
「いったい何分待ったと思っているんだ! 何分待たせたか言ってみろよ! 今までこういう店で、こんなに待たされたことは無い! この店の管理は一体どうなっているんだ!」
大声を上げているのは、70歳を超えていると思われる男性。その声にちょっとびっくりはしたが、平身低頭の女性従業員に向かって放たれる声に、私はちょっとムッとした。その瞬間、注文の列に並んでいた私の前の男性(40歳前後と思われる)が、いきなり大声でその老人に言い放った。
「そんな言い方ねえだろう! 一生懸命やってるじゃないか! そんなに待つのが嫌なら、他の店に行けばいいんだ!」
言われた方は、言い返すこともなく、「すみません」と小声で言って、その場を立ち去った。
さて、その店で注文を終えた私は、自分の席に戻って出来上がりを待つ。同じように隣の店で注文した息子のうどんは、早々と出来上がってきた。家内が向かい側の店で注文した焼きそばも。しかし、一向に私のチャーハンラーメンが出来てこない。目の前でサッサと食べ始める家族を見ていても仕方ないので、ちょっと店を覗いてみる。私の注文した店が、他の店に比べて特に注文が殺到している、という訳ではない。私の注文した品も、特別珍しいものでもない。だが、どうも出来上がりの品が出てくるのが、他の店に比べて妙に遅い。機械的なトラブルというより、中で調理する人が絶対的に足らないようだ。
人間、腹が減ると気が短くなるのことは、科学的に証明されているらしい。確かに、手軽に食べれるフードコート店で、こんなに待たされた経験は私にも無い。そう思えば、さっきの老人の怒りの言葉も、何だか納得できるような気がしてきた。あの時は侮蔑の眼を向けてしまったが、意外とあの老人の言うことが正解だったのかもしれない。結局20分以上待たされて、私のチャーハンラーメンは出来上がり、やっと席に戻って来れた。もちろんその時には、家族は既に食べ終わっていたのだが。
食べながら、フッとその店に眼を向けると、さっきまで注文を受けていた女性従業員の姿は無く、代わりに男性従業員がレジ前に立っている。その女性従業員は、奥で調理係になってしまった。混雑具合を察して、どこからか助っ人がやって来たのか、それとも本来の人員がやっと揃ったのか、それは分からないが、待ち時間は大幅に短縮されたようだ。しかし、先程の老人や、それを戒めた男性、そして私など、口に出す出さないは別にして、待ち時間の思わぬ長さに憤慨した人々を作った原因は、さてどこにあるのだろう。あの頑張った女性従業員ではない事は確か。そうなると、やっぱりあの老人の言った、店の管理体制ということになるのだろうか。日曜日の昼食時に、必要な人員を用意できなかった(実際には手配していたのかもしれないが、現実はそうならなかった)、店の管理者の責任ということだろうか。そうなら、やっぱりあの老人の主張は正しい事になる(主張の方法は別として)。
しかし、私もサービス業に従事する者の一人。あの店の店長なり管理者なりの立場に自分を置き換えてみると、言い訳の一つも言いたくなる気持ちも分かる。どんな時もお客に充分なサービスが提供できるように、人員を充分用意するということは、すなわち経費の増大を招き、今のような低価格では商品を提供できない、と。この不景気の世の中、業種を問わず経費削減に勤しみ、皆ギリギリのところで踏みとどまっている。実際私は、こうしたフードコートに出店している店で、流行っていたように見えたのに、閉店を余儀なくされた店を何度も見ている。今日この店で起こった不具合が、明日、次週の日曜に、両隣の店で起こる可能性は確実にある。経費の削減と闘いながら利益を生み出していかなければ、自分の立場が危うい店長なり店の管理者なりに、同業者としてちょっと同情もしたくなる。
ではやっぱり、元々の原因は、この不景気のせいなのか。しかし待てよ、バブルで賑わい、好景気を謳歌していたあの頃、我々サービス業は充分な人員を確保できていただろうか。探せばいくらでも職が見つかるその時代、盆も正月もゴールデンウィークも、早朝も深夜も働かなければならないサービス業では、やっぱり人手不足だったことを思い出す。あの頃、ドンドンやってくるお客に、その対価に見合うサービスを提供できるように人員を確保することが、一番の頭痛の種だったのではないか。景気の好不調で、悩みは解消されない。
じゃあ、いったい何処に原因が・・・、と考えたところで、私の思考は止まった。同時に、食べ終わった私の箸も止まった。人間、腹が減ると気が短くなるのことは、科学的に証明されているらしいが、その逆もそうらしい。満腹の私には、それ以上の詮索をする意欲が無かった。それと同時に家族の姿も、その席には無かった。「遅いから、先に買い物しているね」と言って、先に立ち去ったのだった。一人残された席を立って見渡せば、何事も無かったかのような日曜日のフードコートだった。
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じゃあ、行くよ [巷の雑感]

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さて、そろそろ帰るよ。
大学4年間なんて、特に勉強しなくていいから。そりゃあ、中退や留年はダメだけど。せっかく努力して入った大学だからな。でもね、ここまででもう充分勉強させられてきただろう。押しつけられた勉強はもう終わりさ。これからは、自分が学びたいことだけを学んでいけばいい。机に向かいたくなければ、向かわなくていい。疲れて眠ければ、寝ればいい。遊びたければ、遊んでもいい。今まで一生懸命に走ってきたご褒美が、この4年間という時間だと思うよ。
そしてね、この4年間の大学生活の後には、もっと大きな世界が待っている。今まで成長と共に、泳ぐプールの大きさを変えてきたオマエが、今度は区切りの無い海へ出ていくようなものさ。それを、見たり、感じたり、考えたり、準備したりするのが大学生活だと思うよ。
知らない土地、それも最も動きの激しい東京で、一人で生活するとなれば、時に間違った選択をするかもしれない。右に進んで間違ったと思ったら、左に進めばいい。ただ、間違ったと思っても、同じ道を戻ってはダメだよ。正しいと思う方向に向きを変えて、前へ進むのが若者。来た道を戻っても、後悔するばかり。それが許されるのは、オレみたいな歳になって、背負うものができて、自己を犠牲にしてでも守らなくてはならない人だけ。
これから迷い、傷つき、立ち止まることもあるだろう。振り返ることも、過ぎ去った時を懐かしむこともあるだろう。そりゃあ当然さ。人間だもの。オレの子だもの。そんな鉄人じゃないからね。そんなに頑張らなくていいから。たくさん見て、たくさんの人の話を聞いて、ゆっくり考えればいい。それがこの4年間だと思うよ。
すぐに慣れると思うけど、知らない土地、知らない人の中では、何もしていないようでも、今までと同じようにしているつもりでも、疲れるものさ。まあ、体にだけは気をつけてな。苦しくても辛くても、心身ともに健康なれば何とかなることもあるさ。オレ達はこれまで通り、いつもの所に、いつものように居る。おまえが望めば、手の届くところにね。
それじゃあ、時間だから。
 
じゃあ、行くよ。

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新生活 [巷の雑感]

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一年の区切りは元旦から始まり大晦日で終わるのだが、年度の終わりは今月末。そしてこれを機に、新たな出発をされる方もいるだろう。
冬から春への季節が移り変わるこの時期を、新たな始まりの時期としたことは、実に名案だったと思う。春から夏だと、過酷な暑さに立ち向かうのに身構えてしまいそうだし、夏から秋だと、何だか物悲しいし、秋から冬だと、暮に向かっての慌ただしさに希望が負けそう。厳しい寒さを乗り切って、暖かな春を迎える冬から春へのこの時期は、何だかこの先に夢や希望が持てて、能動的に活動できそうな気分がする。
実は毎年同じようにこの時期を過ごしている大人の我々と違い、学生たちにとっては、卒業・進学・入学という節目を乗り越えることを意味する。過ぎた過去には戻れず、迎える大小の変化に、否応なく対処していかねばならない。それは楽しかった日々や親しかった友や家族との別離を悲しむことになるかもしれないし、変わりゆく未来に向けて夢を羽ばたかせることになるかもしれない。
「門出を祝う」という。門出とは、旅立ちのこと。それは祝うべきこと。出発する者も、見送る者も、祝うべき華々しいことなのだろう。勿論、その先には今まで体験したことのない苦境が待ち構えているかもしれない。旅立ちとは、先の分からぬ処へ向かう勇気を必要とする。尻込みする気持ちが希望を上回ることも、ひょっとすると有るかもしれない。しかし、それでも旅立つこと、旅立てる力を得たこと、それは祝うべきことに違いないのだろう。
デパートやショッピングセンター、ホームセンターやスーパーマーケット、様々な業種で新生活のための、販売促進が行われている。これから訪れる今までとは違った生活に、夢と希望を持って挑めるように、せめてスタート台はきちんと用意してやろう、という親心を当て込んだものかもしれない。親は分かっている。いつまでも一緒に歩けないことを、ここまでしか一緒に来れないことを。だから、「せめて」と思ってしまう。
何も変わらぬことの幸せについて、以前書いた。今年の初めに、変わりゆく世の中で立ち止まることが許されないなら、滔々と流れる川のように、今年は大らかに過ごしたい、と書いた。18年間一緒に過ごした息子が旅立つのなら、せめて私はここに留まり、今までと何ら変わらぬ姿を残しておきたいと思う。旅立つ者が、ふと振り返りたくなった時のために。
 
 
これから、愚息の引っ越しのために東京へ向かいます。ブログへの書き込みは、あまり出来ないかもしれませんが、ご容赦ください。
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最後の大会 [巷の雑感]

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最後の大会が終わりました。次男(小学6年生)にとって、既に公式戦は終わっていたので、あるチーム主催の大会だったのですが、昨日が所属チームで出る最後の大会でした。練習や紅白戦などと違って、優勝を目指して他チームと真剣勝負を繰り広げる姿は、もう見れません。長男の後を追って、幼稚園児から入団したこのチーム、9年間お世話になりました。時にチームメイトは一部変わったりしましたが、最後の3年間は不動のメンバーのまま、ジュニア世代の大会を戦い抜きました。戦績は最上のものではなかったかもしれません。しかし、最後の姿を見に来ていた保護者の方々と語らうと、それでも十分満足できる結果だったように思えます。いつもファインダー越しに見ている私ですが、今回はカメラを手にせず、最初から最後まで肉眼で見続けましたが、子供たちが最後に掛ける意気込みは、しっかり感じられました。そしてこの一年間で、多くの大会をこなし、苦楽を共にしたチームは、長足の進歩を得られたことも感じました。もう一年あれば、と思う気持ちは確かにあります。でも既に、ジュニアのユニフォームが似合わなくなっている子もいることを考えれば、もうここで次のステップへ行かせるのが順当なのでしょう。アイコンタクトでパスを廻す息子とチームメイト達、湧きあがる想いは別にして、十分楽しめた二日間でした。

最後の大会が終わりました。この大会は毎年この時期に行っている、卒団記念大会。公式戦が終わって久しい6年生、もうまもなく卒団する6年生のために、最後に戦う場を与えようと、あるチームが県内外の親しいチームを招いて行われる大会で、我がチームも毎年最後の大会として参加していました。しかしそれも、今年が最後になります。この大会は来年は開催されません。なぜなら、我々を招いてくれたチーム自体が、この大会をもって無くなってしまうからです。部外者の私には、詳しい事情は分かりません。けれど会場のあちこちで、それを惜しむ声が上がるほど、とてもフレンドリーなチームでした。会場準備、駐車場整理、参加者の誘導、清掃・後片付けと、朝早くから保護者の方々が懸命に動いている姿を、これまで何度も目にしました。今回も二日間にわたりトン汁を全チームに振舞ってくれたお母さん方は、閉会式のテントの中で皆、涙でした。最後に胴上げされたチーム代表者の目にも。悔しい、悲しい気持ちは当然あったでしょう。でもそれを包み隠して、この最後の大会をやりおえたチーム・保護者・指導者に対して、参加者から最後に万雷の拍手が起こったのは、当然のことでした。

最後の大会が終わりました。私の次男が、この小学生用の狭いゴールに向かって、4号ボールを蹴ることは、もう無いと思います。あんなに大きく見えたボール、今は軽々と蹴ります。あんなに広く見えたグランド、今は軽々と走り回ります。子供の成長していく姿を、こうして真摯に突き付けられると、嬉しくもあり、悲しくもあります。悲しい? ハイ、子供が我が手の中で大きく重くなっていき、飛び出すまでの時間が、確実に狭まっていることを感じさせられるからです。最後の大会を終えた息子は、より広いゴールを目指し、より広いグランドを走り回ります。それはまだまだ発展途上の息子には、小さくない変化かもしれません。しかし、その後の長い人生からみれば、ちっぽけな節目にすぎなかった、と思えるに違いありません。そうして幾つかの節目を乗り越えながら、サッカーが好きな子供から、サッカー選手になっていくのでしょう。最後の大会を終えた息子とそのチームメイト達には、振り返って懐かしむ表情は皆無です。それは当然のこと。目の前に広がっている未来の方が、遥かに広く、素敵に見えるからです。次の節目に突き当たった時、ひょっとすると僅かに振り返るかもしれませんが、今はただ、前を向いて進んで欲しいと思っています。

最後の大会が終わりました。けれど最後が無ければ、やっぱり次は始まらないのです。

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