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敗者の表彰式 [巷の雑感]

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サッカーに興味のある方は、このニュースは既にご存じのことと思う。先日のナビスコカップ決勝で敗れたJリーグのチームが、その表彰式で非常識な態度をとったということで、準優勝賞金(5000万円)の返納を申し出た、という話。この件は昨日、賞金の返上の代わりに、選手教育、社会貢献、地域へのサッカー普及活動に使うということで決着したようだ。
確かに、日本のサッカーピラミッドでは、常時ではない日本代表を除けば、Jリーグはそのトップに位置し、多くのサッカー少年・青年たちの目標となっているのだし、衆目の集める場での行動となれば、律しなければならないのは、社会人として自明のことと思う。しかし、勝者と敗者を決めるのが試合で、ましてや優勝をかけた試合でとなると、負けた選手たちの心情も、察するべきところはある。ラグビーでは、試合終了のホイッスルが鳴ると、敵も味方もない「ノーサイド」だという。互いに称え合うことはことはサッカーも同じだが、優勝を目指して全力で戦ったゆえの悔しさを、直後に掌を返すように無くすことは、大人でもなかなか難しいことだと思う。
私も協会のお手伝いとして、これまでサッカー少年・青年たちの表彰式の写真撮影を多くこなしてきた。優勝して喜びを弾けさせている、応援の保護者や観衆の称賛の声に中にいる、そんな優勝チーム・選手の隣に、試合直後に並ばされる敗者は、まるで勝者とわざと対比させるようで、苦痛以外の何物でもないのでは、と思ったことが何度あった。他の競技、大会などで、たとえば一位から六位までが決まって、その中から一位と二位のみを表彰する場合は、また違うかもしれない。決勝戦のみで、その場にいるのは勝者と敗者だけ、しかも試合直後、という状況は、敗者にはなかなかキツイ表彰式とも考えられる。特に小学生などでは、一方は跳びあがって喜びを表現し、もう一方は泣き崩れて地に伏せていたりする。表彰式とは、敗者にはこんなにも残酷な行為なのか、と早く終わってくれることを願ったことも多々あった。なので、敗れた側が表彰式に出たくない気持ちを、私は十分理解しているつもりだ。
以前、高校生のサッカー大会でのこと。決勝戦直後の表彰式を撮影するために、私はカメラを構えていた。優勝したチームは意気揚々と観客や保護者に手を振りながら、既に整列を終わっている。敗れたチームは、出たくない行きたくない、という気持ちがアリアリで、うつむいたまま動かなかったり、立っても足取りは重い状態。その時そのチームのキャプテンマークを付けた選手が、「最後までキチンとしようゼ。俺たち何も・・・。最後まで胸を張っていこう」と声を絞り出し、同僚の肩をたたきながら整列させている光景を見たことがある。私はこの敗者にこそむしろ、拍手を送りたい気持ちで一杯だった。
終戦直後の敗者は悔しいだろう、すぐにその場から立ち去りたい気持ちで一杯だろう。なのに、勝者が待つ表彰式に向かわなければならないのは、苦痛だろう。でも、今日は敗れたとはいえ君たちも、この決勝戦に来るまでに、多くの勝利の願いを打ち破って勝ち上がってきたはずだ。そんな君たちに敗れた敗者たちのためにも、胸を張って表彰式に出る責任が、あると思う。そしてこの準優勝という表彰は、今日のこの試合に対するものではない。優勝決定戦まで勝ち上がった、これまでの戦いぶりに対して送られるものだ。決して、卑下するようなものではないはずだ。
勝者になる喜びも、敗者に甘んじる悔しさも、たくさん経験してきた大人のJリーガーがとった行為だから、今回は問題になったのだと思う。そしてそれに対する処罰が、選手の育成や普及活動というなら、ぜひともそんな胸を張る敗者を育てていただきたいし、私たちも、敗者に盛大な拍手を送れる観客になりたいものだ、と思う。

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終戦 [巷の雑感]

雨がしたたり落ちるなか、試合終了のホイッスルがグランドに響いた。整列する選手たちの眼は真っ赤だったが、泣き崩れたりすることなく、みんな充実したいい表情をしていたことを、ファインダーで確認した。多くの保護者と後輩たちに、終戦の挨拶をする姿を撮り終えると、私は構えたカメラをゆっくりと下ろした。見上げた空は暗く、涙のような雨がしたたり落ちてきて、私の瞳を濡らしてくれていた。ふーっと息を吐く。すーっと空気を吸う。こんなにも素晴らしい気分になれたのは、何年ぶりのことだろう。全ての想いから解放された今、清々しい、という以外の言葉は見つからない。敗戦の悔しさ、後悔、終わったことの残念さ、虚しさ、そんなものは微塵も感じない。つい先ほどまで、歓声と闘志がぶつかり合っていたのが、ウソのように静まり返り、ただただ空からしたたり落ちる滴を受け止めているグランドの片隅に一人立ち、私は何とも言葉に表すことのできない、湧きあがる感情、重くのしかかる想いが全て霧散していくような、解放感にも似た空気の中にいた。

(この記事は、前回の「最後の試合」の続編として、そして多くの方々から頂いたコメントへのお返しとして、書かせていただきます)。

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午前中は晴れ間も覗いていたというのに、試合開始早々、雨が降り出した。一次リーグ最終戦を、奇跡的なPK勝ちで二次リーグに進んだ愚息1号のチームは、しかしやはり実力差は如何ともしがたく、前日の優勝候補との一戦で大敗したことで、二次リーグ敗退が確定していた。今日の試合は、敗退者同士の消化試合となってしまったが、欲も重圧も無くなったせいか、かえって選手たちの最後の一戦にかける心意気は強かったような気がした。しかし、試合開始直後にそれが裏目に出る。一発レッドカード。残りの70分を、一人少ない十人で戦うことを余儀なくされる。ただそこからが、実はこの試合の始まりだった。一人少ないハンディを、運動量と巧みなポジションチェンジで補い、何度も相手ゴールに迫り、決定機を造り出した。1点ビハインドの後半が始まってもそれは変わらず、ファインダーを通して見る選手たちの表情は、これまで何十試合も見てきた私の眼と心に、気合と想いを伝えてくれる。確かに、技術的に未熟なチームで、この場で戦うには力不足であっただろうが、今持てる自らの力を全て出す、という意気は、ピッチに立つ全員から感じられた。さすがに最後は足が止まり、とどめの一撃をくらい、2対0で最後の試合を終えることとなった。
試合後の選手たちの想いは、それぞれ様々だったことだろう。我が愚息は、傍らにいる私に眼を合わせようとはしないが、その表情から窺い知るに、悲壮感や後悔は微塵も無く、今の私の気持ちと同一であることを確信できた。勝つために全力を尽くす、そのためにサッカーグランドに足を踏み入れるということは、多分もう二度と無いであろう。そんな想いがふと頭をよぎった時、一瞬さみしげな眼をみせた息子だったが、それはすぐに消えてしまった。
振り返ってみれば、14年という永い間、サッカーを第一に考え、より強く、より上手くなることを望み、相手に勝つ、その為にどうすればよいか、それをずっと考えて育ってきたようにも思える。そのために汗も涙も流し、怪我を克服し、仲間との絆を深め、歓喜に酔いしれ、挫折に苦しみ、相手より優れていることを欲し、勝利を得るということをずっと目指してきた。そしてそれが血と肉となり、強くたくましくし、今日の姿を造ってくれたのだと思う。それは正しく、素晴らしいことであったと信じている。
ただ、ピッチを去る時に、一つだけ伝えたいことがある。これまで全力で走りまわったグランドは、68m×105mの四角に区切られたところ、これまで全身全霊で守ってきたゴールは、7.32m×2.44mにすぎない、ということを。そしてそのグランドを一歩外に出て見てみると、それよりも遥かに広い世界が広がっている、ということを。でもそんなこと、私があえて言うまでもないのかもしれない。スパイクを脱ぐ、という結論を出した息子は、もうそれに気付き始めているに違いないから。
息子の友人には、卒業後もサッカーを続け、自らを厳しくし、より高みに挑む者たちもいる。強者が偉く、勝者が尊ばれ、弱者は頭を下げ、敗者は去らねばばらぬ。より強くなることは難しく、勝者であり続けることは、なお難しい、厳しい世界。そこに挑戦する道を選ぶのはまた、素晴らしいことであり、サッカーという競技に微力ながら関わった者として、応援したい気持ちは止まるものではない。
実はそんな勝ち負けは、スポーツのみならず、この世の至る所にあり、これからの人生、永遠に続くかもしれない。そこにはより大きな幸福が有るかもしれないし、より深い辛苦が有るかもしれない。ただしかし、この14年にいったん終止符を打つというなら、そんな勝ち負けが全てではない、実はまた別の世界もある、ということを、息子には眺めてみて欲しいと思う。サッカーグランドよりも広い競技場で、自己の限界に挑むものもいる。サッカーグランドよりも狭いコートで、切磋琢磨するものもいる。しかし、そのサッカーグランドから、ふと目を向けると、綺麗な花を咲かせる野山が広がっていたり、鳥が飛び交う大空が広がっていたりする。そしてその向こうに、世のため人のため、家族のために額に汗して働く人々の住む街があったりする。たとえ世界は一つだとしても、歩む道は無限にあり、喜びも悲しみも、幾万幾千とあることを、知って欲しいと願っている。


愚息1号のサッカー生活も、これにて一先ず幕を下ろします。このブログをご覧の方の中で、応援していただいた方々、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。そして、このブログをご覧の方の中で、サッカー少年の保護者の方々、叱咤激励しより高みを目指すのも、また別の目標を目指すのも、良いと思います。ただ最後は(それがいつになるか分かりませんが)、その子の親であったことを、幸せに感じて欲しいと思います。
私は今、幸せです。



エピローグ


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最後の試合 [巷の雑感]

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学校で部活動(特にスポーツ系の部)を行っていた人には、引退というのは必ずやってくるものだ、と分かっていただけると思う。別にそこで、その競技を続けるのを止めてしまうわけではなくても、学校のクラブ活動というのは永遠に続けられるものではなく、在校生でいられる間、という制限があるのだから、そういった意味での引退は必須だ。その引退時期というのは、実はさまざまで、受験勉強に専念するために、最終学年になる前に既に引退してしまう子もいるだろうし、卒業まで続ける子もいる。競技の種類によっても違うだろうし、その子の熱中度やその後の進路によっても違うだろうし、部活動を取り巻く環境や仲間、親の考えなどにも左右されるかもしれない。ただ、その年の公式戦が終わってしまうと、どうしてもモチベーションが保てなくなり、(練習は続けたとしても)自然とその時点での引退を決める子が多いようだ。
私がいつも被写体にしているサッカーだが、中学年代(15歳以下)と高校年代(18歳以下)には「高円宮杯」という全国大会がある。現在増えつつあるクラブチームと学校のサッカー部の区別なく参加でき、各地区、県から勝ち上がって全国を目指す大きな大会。そしてこれが終わってしまうと、つまりは敗退してしまうと、次の公式戦が新人戦となり、チームはそれに向けた新しいチーム造りに向けて動き出し、自然と最終学年の選手たちは主役の場を去らなければならない。ただ高校年代には、この高円宮杯(今年は横浜Fマリノスユースの優勝)の後に、「高校サッカー選手権」という、年末から年始にかけて行われる全国大会があって、クラブチームを除く高校サッカー部にとっては、それが最終公式戦となる。この大会の地区予選が現在各県で繰り広げられていることと思うが、時期が時期だけに、既に3年生が全て引退してしまって、1・2年生のチームで臨んだり、最終学年としては、負けたら引退、ということで、意気込んでいる3年生主体のチームもある。それゆえ、時折大差の試合があったり、意地と意地がぶつかる好ゲームがあったりして、見る方としては大変面白かったりする。
さてそこで、ウチの愚息1号(高校3年生)である。大学受験を控えているというのに、今日もサッカー部の練習に行っている。ほとんどの進学組が夏のインターハイ予選敗退で引退したというのに、最後の公式戦まで続けて、そこでスパイクを脱ぐ、と言うのである。大学ではサッカーを続けず、別の道を行きたい、と言うのである。まあそれも一つの決断であるし、本人が熟慮の末に出した結論なら、反対する故もない。元より私は、自分の子は自由に羽ばたかせてやりたい、と常日頃思ってきたことだし、自分で自分の将来を考えられるような歳になったことは、喜ばしいことではある。
振り返ってみれば、ウチの愚息1号がサッカーを始めたのは幼稚園の時。友達と一緒に何か体を動かすスポーツをするのは、教育的にも良いことだ、と始めさせたはいいが、入団したのがクラブチーム故に、送り迎えに付き合わされることに面倒を感じることも多々あった。試合だ、大会だ、と送迎に付き合わされて見ているうちに、「何でお前はゴールキーパーばかりやっているの?」と聞いたことがある。そんな頃から息子は、ずっとGKだった。小学生も学年が上がるにつれ試合が多くなっていく。一歩引いて、冷静に我が子の成長を見てきたつもりが、試合の勝ち負けの渦中にいる息子を見ていると、どうしても応援・熱中する親心が、いつの間にか沸々と湧きあがってくるのを感じたのは、小学校も高学年になった頃だろうか。そして、息子をはじめ、チームメイトたちが真摯にボールに向かう表情、家では決して見せることのない喜怒哀楽、泥だらけになっても、相手選手に倒されても、ボールに向かっていくはつらつとした動き、そんな光景を見ていて、「これを形にしていつまでも残したい」という思いも、同時に湧きあがってきた。
息子がサッカーを始めて14年目、私がサッカーを撮り始めて7年目の今年、ひょっとすると大きな節目になるかもしれない。真夏の炎天下で滝のように流れる汗をぬぐいながら、みぞれ混じりの寒いグランドで指先に息を吹きかけながら、「背番号1」を付ける息子の姿をファインダーで追ってきた。夜が明けきらぬ前に機材を車に詰め込むこともあったし、数百キロを走った後すぐ仕事といったこともあった。好きだからこそできた事だろうが、息子がサッカーをしていなければ、できなかった事でもある。今こうして偉そうなことを書けるのも、多くの方々に見ていただけるブログを続けられるのも、県のサッカー協会のお手伝いができるのも、フォトコンテストで入賞できたのも、みんな息子がサッカーをやっていたお陰。そして、時に厳しい言葉をかけたり、笑いながら冗談を言い合ったり、サッカーという共通のテーマがあったればこそ、今日まで途切れることなく、息子と話をする話題には事欠くことなど無かった。そんなことを振り返ってみると、息子のサッカーから私が得られたものは、とてつもなく大きいような気がする。著名な選手でもプロを目指す実力も無い愚息だが、ずっと続けてきてくれた恩恵は、本人のみならず、私のみならず、我が家全体にも与えてくれた。そしてそれが、まもなく終わろうとしている。
この高校サッカー選手権の県予選の会場には、一次予選がトーナメント(負けたら即終わり)だったせいだろうか、いつもより多くの保護者の方々の姿を見かけた。そしてその眼には、息子の最後の勇姿をしっかり見ておきたい、という親心が、いつもより強く感じられた。もちろん私も、何をおいても駆けつけ、撮り続けたが、「これが最後の一戦」という気持ちが「息子のユニフォーム姿を撮る最後のチャンス」を意味し、いつも以上にシャッターを押す指に力が入ってしまったことは、今まで無かったこと。一緒に来ていた家内は、試合中ずっと、胸に手を合わせて祈りながら見ていた。幸いにも二次リーグ戦に進出できた息子のチームは、まだ私に撮るチャンスを与えてくれた。しかし、始まりがあれば、終わりもまた必ずある。最後の試合がまもなくやってくる。その時私は、どんな気持ちでいられるだろうか。
今週末、息子は14年間の努力といろんな想いを全て込めて、試合に臨むだろう。そして私も、7年間の全てを込めて、渾身のシャッターを切るつもりだ。そして、最後の一コマを撮り終えた時、感謝にも似たさまざまな想いがこみ上げ、息子同様に不詳にも、涙が溢れるかもしれない。そんな気がする。
でも、それでも、良いと思っている。

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除草 [巷の雑感]

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山地の多い日本では、川はどこにでも見られる。大都会に流れる川ではなく地方に流れる川には、コンクリートなどでで固められていない堤防がよく見られる。そしてまた、そうした土がむき出しの地面には、様々な草が生い茂ることが、日本では当たり前のように見られる。
一年で今頃は、そうした雑草の生育期がピークを過ぎた時期でもあり、先日通った堤防道路でも除草作業が行われていた。この時期に除草しておくと、来年まではその必要性がないから、ということなのだろう。こうした公共の場所での除草作業は、県や市などの自冶体が費用を出して行うのであろうが、街中にある未使用の雑草が生え放題の土地に関しても、その所有者に対して除草するよう自冶体から通達が来る。山林や原野に対しては、そんな依頼は来ないだろうから、要するに人が接するような場所では雑草は排除してください、ということなのだろう。
この日本では、むき出しの地面が有れば雑草が生えること自体は自然なことだ。その雑草を排除する、生えなくする、ということが、自然を破壊するとは言いすぎだろうが、自然を保護するという観点からはちょっと反する行為かも、と考えるのは、やっぱり偏屈だろうか。綺麗な花を咲かせる草花や木々だけが自然ではあるまい。その足元で、人間には嫌われる雑草も、同じ植物には違いないし、自然の緑に違いない。一方は大切にして、一方は目障りになるとすぐに排除される。人が見て綺麗なもの、人が植えて育てたものは大切にし、勝手に(自然に)生えてきた、見栄えの悪い雑草は嫌われ、刈られ、生えないようにされる。この世界の主である人間様の言う「自然を大切にしましょう」というお題目は、ずいぶん「上から目線」のような気もする。
都市の景観や整備にあたっては、植物の緑を盛り込むことが必須になっている。一般住宅やビルなどの建物を設計する際、植樹したり花壇を作ったりして緑を意識的に加えることを、申請許可の権限を持つ官庁から指導される、という話を、既知の建築設計士から聞いたことがある。そうして意識的に植物の緑を増やすことで、見た目の街の景観を良くすること、人の造作物の集合の中に自然の緑を取り込み触れ合うこと、それを目的としているのだろう。それはそれで、すこぶる好ましいことだと、私も思う。ただ、よくよく考えてみると、私たちが日常大切にしようとしているのは、よく整備された自然、手間暇と費用をかけられた緑、人の日常生活に邪魔にならない植物、人が見て綺麗だと思える草木、であって、勝手に生えてくる雑草などは、その対象になっていなかったりする。
自然とは辞書によると、「山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの」だそうだ。人の手が加わった、人が作った植木や花壇の植物は自然ではないことになる。むき出しの地面に勝手に生えてきた雑草こそが、実は自然だったりする。子供たちに学校では、「自然を大切にしましょう」と教えるが、私はこの言葉を簡単に発するのに、ちょっと躊躇してしまったりしている。
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老人だからなあ [巷の雑感]

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先日、近所のスーパーへ買い物に行った。たくさん買い込むのでなければ、こうした用途には自転車で行くのが一番。雨さえ降っていなければ、手軽に行けて、健康にも良いし、何といってもエコ。そう考えるい人が多いのか、最近の大型店はどこも、自転車を置く駐輪スペースを広く設けてある。
買い物が終わって店を出て、その駐輪スペースに向かって歩いていると、80歳近いと思われる男性が、自転車に乗ってやってきた。そして、その自分の乗ってきた自転車を停めようとするのだが、すでに結構な数の自転車が並んでいる。その列に無造作に、いや無理やりに、自分の自転車を突っ込んだものだから、当然並んで停めてあった自転車十数台が大きな音とともに倒れた。間違ったり、上手くできなかった、という過失ではなく、自分の自転車が一番良いところに停めれれば、他の自転車はどうでもよい、という確信犯に似た意思がその行動から感じられる、明らかに作為的な行為だった。その倒れた自転車の中に私のものも含まれていたので、一瞬ムッとしたが、「老人だからなあ」という気持ちが湧き起こり、何も言わず黙って自分の自転車を引き起こした。その80歳近いと思われる男性は、私の姿を見て気まずく思ったのか、いきなり鼻歌を歌いだし、自分は何も関係ないよ、とでも言いたげな表情で、ひょうひょうと店に入って行った。
さて、自転車に乗っての帰り道。交差点で信号が変わるのを待っていると、向こうからスクーターに乗った、これも80歳近いと思われる男性が走ってくる。しかし、その道は一方通行。スクーターといえども車両だから、やっぱりマズイんじゃないかなあ、と思って見ていると、私の目の前で堂々と信号無視。そして何と、歩道に入って走り続ける。ちょうどその歩道に小学生の一団が前方に歩いていたものだから、スムーズに走れないと見るや、今度は車道に出て走り続ける。オイオイ、それじゃあ逆走じゃないか。要するに、自転車に乗っている感覚なのだ。特にスピードを出しているわけではないのだが、やっぱり交通法規は守らないと、と思ったのだが、背筋をピンと立てて颯爽と走り去る後ろ姿をみて、「老人だからなあ」という気持ちが湧き起こり、何も言えない私がいた。
老齢者の多くが、こういった行為をする、とは思わないし、実際そうではないと思う。ごくごく一部の稀な例なのだろうが、この私の心の中に湧き起こった「老人だからなあ」という気持ちは、はて正しいのだろうか。犯罪の低年齢化とともに、少年法が改正され、重大事件には大人と同じような扱いを受けるという。「子供だから許してあげて」という言い訳は、利かなくなってきている。反して、老齢者はどうだろう。「老人だからしかたない」という気持ちを持つこと、間違ったことをしても見過ごすことは、さてどうだろう。
子供には、しつけや教育という名の育て方が、親や社会に義務とされている。法を守ること、社会の一員としてのモラルを守ること、だ。しかし、その法を決めたり改正したり、社会を形作る政治に対する参政権は、子供には与えられていない。対して、老齢者は大人だ。そういった法やモラルは当然心得ているものとして見られるし、見なくてはいけない。何より、その守らなければいけないものに対して意見を言える参政権が、子供にはなくても老齢者にはある。「子供だから」と「老人だから」は同じではない。
社会的弱者という意味では、子供と老齢者は共通する部分を持っているかもしれない。しかし、やっぱり老齢者は大人なのである。
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