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趣味への投資 [巷の雑感]

何でもやってみないことには分らないことがある。経験して初めて身に付く知識もある。それなら、あらゆることに手を出して、経験してみれば、博識になって、その後の人生が有利に、そして有益になるのではないか、という結論に達するが、そうでもない。まず時間的な制約は誰にでもあるということ。必然的な日常生活をしながら、それ以外の時間を費やして、多くのことを経験するには、人生は短い。経験することで、精神的・経済的なダメージを被ることがあること。得られる知識や経験より、ダメージの方が大きければ、無駄が多ければ、やらなければよかった、という結論に達する。自分は良くても周りに与える影響も考慮しないといけないかもしれない。人間は一人で生きているのではない。ましてや、生活を共にし、陰日向無く自分を支え、自分が支えている家族のことは、考慮すべきであろう。しかし、そんなことを考えて、立ち止まっていては、何も経験することができず、何も得ることはできない。人生とはそんな取捨選択の連続なのだと思う(偉そうな言い方だが)。
さて、趣味という分野に限って見てみると、本人以外は無駄な事と思われることが多い。それで利益を得て、生活の糧を得ているのではないのだから、それは仕方ことなのかもしれない。やらなければならないことだとは、周りは思ってくれないし、事実そうだろう。趣味とは、やらなければならないことをやった他の時間に、自分の楽しみのために行うべきもの。そんな趣味の世界に、損得勘定を持ち込むのは無粋というものだが、貧乏性の私などは、どうしても考えてしまう。時間的にも経済的にも、普段の生活を圧迫するような趣味は間違っている、と誰しも思うし、私もそう思うが、その範囲内で楽しむ趣味は人生を彩ってくれる、というのは、言い訳に聞こえるだろうか。
趣味を楽しむということに、冷たい眼を向ける人は、その趣味で得られるものが理解できないからだ。だから無駄に思える。そんな無駄をすることが贅沢に思える。残念なことに、趣味で得られるものが、当人にしかやってこない、同じ趣味の人でしか理解できないところが、不評を買う原因なのだが、その当人にとっては、他では得らない喜びや楽しみが得られ、明日への精神的な糧となり、疲労回復や意欲増進になるかもしれない。実際、そうなっている人も多く見かけるし、このブログの最初の記事で紹介した、私の父のような「仕事が趣味」の人の悲喜を考えると、この高齢化社会では、もう万民が趣味を持つべきだとも思う。ただ、日本の高度成長期の名残か、趣味を持つことは日常生活に苦労がないことの証、つまりは「趣味は贅沢」という見方が未だに残っていて、趣味を楽しむには、そんな視線を跳ね返すだけの精神的な強さか、多くの同趣味の人たちとの集まりで補うのが、まだ必要な時がある。しかし、それとて今後は、定年後に趣味を謳歌する人が多くなると、どう変わっていくか分らない。
旅行が好きな人は多いと思う。日常生活からしばし離れて、しがらみの無い違う環境にひと時でも自らを置くことで、新たな発見をしたり、知識や見識を得たり、疲れを癒したり、明日への英気を養ったり、と、その効能は人それぞれ、その時々で違うが、それでも概ね精神的・肉体的なプラス要素をもたらしてくれ、そこに価値を見出すので、今も昔も、旅や旅行に行く人は絶えない。費用を投じて旅行に行っても、物質的には何も得られないのに。
趣味も同様。日々の糧には直接つながらないかもしれないが、その人にプラスになれば、それは価値あることだと言えないだろうか。どんなに安価で、手軽で、他人に評判が良くても、本人に合わなければ、得られる経験や喜びは少ないし、続けることもできないだろう。逆に、多額の投資が必要でも、それ以上ものが得られると思えば、やる価値は大きい。先に例に出した旅行と同じく趣味は、失うものは有形の貨幣であり、得られるものは無形の価値で、その大きさは当人にしか分からない。有形の貨幣価値という一つの尺度だけで語るには無理がある。なので、先にも言ったように、損得勘定で趣味を語るべきではないのだろう、と思う。
やってみないと分からないのは趣味も同じ。何も強制されることはないし、そうされるべきものでもないのだが、生きるために必要なことだけしかしない、できないのは、ちょっと寂しいような気がする。やってみる価値が少しでも思い浮かんでいただけたなら、趣味への投資がちょっとだけ分かっていただけたなら、一歩を踏み出してみるのも良いかもしれない。
何でもやってみないことには分らないこともある。
 
 
このブログの2年目の最初の記事として、ちょっと真面目に考えてみました。長文失礼しました。


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